そしてマケドニアへ

アテネでの“一日”

 バルカン半島に白い大理石の鉱脈がある・・・。ただそれだけの情報を手掛かりに、私はローマからアテネへと飛び立った。ピエトラサンタでは、たしかにユーゴスラヴィア、そしてマケドニアという言葉を聞いた。しかし、さすがの私も、ミロシェビッチやコソボという言葉をすぐに連想させるその地域へは、なかなか足を踏み入れることが出来なかった。それらの国は、出来れば避けたい選択肢であり、私は古代ギリシャ彫刻の大理石を提供したギリシャの地で、私の白い石を見つけられることを願い続けていた。

 四月も半ばを過ぎたアテネは日差しがとても強かった。夜の便で、空から見下ろすアテネの地は、神秘的で、今にもオリンポスの神々が現れて来そうだった。観光シーズンにすでに突入していたアテネで、予約の取れたホテルはわずか一日。翌日、ホテルに泊まれる保証はなかった。翌日、私は早速、白い大理石を求めてアテネの街を歩き始めた。

 取り敢えず、ホテルのフロントで大理石の会社を電話帳で探してもらった。アテネ近郊の、タクシーで充分行ける距離のとことをピックアップしてもらった。私は早速、リストアップしてもらった大理石の会社を訪問し始めた。手応えはすぐにあった。一軒の会社に向かっているときに、近くの下請け工場に、真っ白な大理石のプレートが、光り輝くように並んでいた。

 「やはり、来てよかった・・・」私はそう思いながら、その小さな下請け工場に入り、飛行機の中で無理矢理に覚えたギリシャ語、しかもイタリア語をギリシャ語に訳した辞書で覚えた片言のギリシャ語と、英語のちゃんぽんで話し掛けた。そこには、プレート状に切られた石しかなかったが、注文すれば、二週間ぐらいでブロックが手に入るようだった。

 しかし、いくつかの問題が頭をよぎった。この強い日差しの下で、果たして石を彫る作業が私に出来るかどうか?また、ここまで来たのだから、いっそのこと手に入るところまで、出かけた方が、仲介料や運賃の分だけ安く手に入るだろう。しかし、白い大理石をとにかく見つけられたことは、私にとって救いだった。ホテルも一泊分しか取れていないし・・・。

 私はさらに目的の大理石会社へ向かった。下請けの子会社でさえあるのだから、当然親元にはブロックの塊があるに違いない。すると、案の定、私はその石の塊を見つけることに成功したのだった。しかし、英語の話せる案内役の一人に、私は水を差されることになった・・・。

 真っ白な大理石の塊。イタリアでの滞在・制作予定をわざわざ変更して、ここまで来た甲斐があった・・・。これで、あのマケドニアやユーゴスラヴィアという、得体の知れない、危険な地域に足を踏み入れずに済む・・・。私はそう思って、ほっと胸をなで下ろしていたところだった。しかし、その案内役は、その石の性質を知り抜いているようだった。

 彼は私に質問した。「この石を何に使うんだい?」「彫刻に・・・」そう言って私は、すでに日本で作った原型の写真を見せた。「本当にこの石でやるつもり?」彼はそう私に聞き返した。「どうして?」私は、何故か気になるその言い方に、一抹の不安を感じていた。

 「よく見て」そう言うと彼は私を連れて、並んで置かれたその石の断面を、次々と見せていった。すると、所々にわずかな亀裂や断面がたしかにあった。「この石っていうのは、亀裂やエアホールが外から見えないんだ。プレートにするならともかく、彫っていて、最後に中から亀裂やエアホールが出てくる可能性がある。我々はその時の保証は出来ない。それでもこの石で彫るのか?」私はその説明を聞いたときに、崖から突き落とされるような思いがした。

 「なんということだ。せっかく見つけた白い大理石なのに・・・」私は“最後の選択肢”が少しずつ膨らんでくる恐怖を、無意識のうちに感じながら、彼のもっともな説明を聞いて、その会社を後にした・・・。日差しはすでに傾き始め、私はその日に泊まるホテルの当てもないまま、元いたホテルの方へと戻っていった。私はすでに、ギリシャ南部の石を一通りチェックし終えていた。しかし、私が求めている“白さ”という点では、古代ギリシャの彫刻に素材を提供したであろうその石には、私は満足することは出来なかった。

 「やはり、北へ向かうしかないのか・・・」私はそう心の中でつぶやきながら、ギリシャ全土と、マケドニア共和国まで記載された地図を広げて見ていた。アテネの次は、どの都市に行けばよいのか・・・。私は地図の記号を見ながら、ギリシャ北部のテサロニキに目を付けていた。ここなら、ギリシャ北部の石の情報が手に入るだろう・・・。

 私は、最後までギリシャのでの石探しを断念出来ないでいた。というより、最後まで“最後の選択肢”である、マケドニア、ユーゴスラヴィアへ足を踏み入れる覚悟が出来ないでいたのだ。地図で見ると、マケドニアの首都スコーピエは、コソボのすぐ真下に位置していた・・・。

 私は旅行業者で、テサロニキへの片道航空券を購入した。テサロニキでのホテルは、バスケット・ボールの全ヨーロッパ・トーナメント大会の開催で、空室ゼロという状況だった・・・。

 

ホテル“エアポート”

 飛行機は、午後10時にテサロニキの空港に着いた。インフォメーションもすでに終了し、ホテルを探すのは、時間的にも、もう不可能に近かった。「このまま、空港で夜を過ごすしかない・・・」私は荷物を空港内の預かりに託し、レストランへと向かった。何とか明日の朝までは過ごせそうだ。こうして私はホテル“エアポート”にチェック・インしたのだった。

 レストランで食事をしていると、一人のギリシャ人のウェートレスが話し掛けてきた。「コンバンワ」「えっ?」私は青い目のその女性が日本語で話し掛けてきたのでびっくりした。聞けば、日本語の勉強をしているという。見ず知らずの国で、しかも思いがけず母国語で話し掛けられ、それまでの疲労や睡魔もあってか、私は半ば夢心地で、ひとときの休息を感じることができた。

 翌朝、インフォメーションでホテルを探してもらったが、やはりどこも満室だった。登録されている三ツ星以上のホテルは、向こう二週間、まったく空室のない状態であった。しかし、インフォメーションで、タクシーの運転手に掛け合ってくれ、登録されていないホテルで、めぼしいところをしらみつぶしに回るように指示してくれた。こうして私は、掛け合ってもらった三軒目のホテルでやっと空室を見つけてもらい、海岸沿いの小奇麗なホテルに泊まることが出来た。

 ホテルに着くと、早速私は、波打ち際のレストランで、砂浜のチェアーに腰掛け、昼食を取ることにした。ギリシャに来て、初めて感じる安らぎ・・・。打ち寄せるさざなみが私の耳に優しかった。すると、一匹の犬と小さな子どもが、食事をしている私のところに何度もやって来る。犬は餌をもらいに、子どもはいたずらをしに・・・。その相手をするのも、私に安らぎを与えてくれた。

 これがエーゲ海か・・・。私は、驚くほど静かに打ち寄せるさざ波に耳を傾けながら、古代ギリシャの世界に思いを馳せていた。

 昼食の後、早速チェックインをすませ、フロントでやはり電話帳を頼りに、大理石の会社をピックアップしてもらい、石探しを開始した。「これがギリシャでの最後のチャンスになるだろう・・・」私は覚悟を決めて、タクシーを飛ばして、近郊の目ぼしい会社を探索した。

 しかし、結論から言うと、アテネと状況は変わらなかった・・・。例の白い石に代わる大理石はやはりないようだった。ということは、中から出てくるかもしれない、エアホールや亀裂を覚悟で、一か八かこの石で彫るか、それとも、いつ何が起こるかわからない、というより、それ以前にまったく様子のつかめないマケドニア、ユーゴスラヴィアに、危険を覚悟で、白い大理石を求めて旅を続けるか、その二つしか私には選択肢がなかった。

 恐れていた“最後の選択肢"・・・。しかし、もうここまで来たら、彫刻家として、作品を危険にさらすより、自分自身を危険にさらす方を選ぶしかなかった。こうして、私はテサロニキから列車で、コソボから20キロと離れていない、マケドニアの首都スコーピエへと向かったのだった。

 

そしてマケドニアへ

 午後五時、20年ぐらいは経っているのではないかと思われる、ドイツ製の重厚な列車に乗り込み、私はテサロニキを後にした。一等車だったが、六人掛けの客室の天井を見上げると、蛍光灯は壊れて器具ごと外され、車両の天井がその穴から見えている。途中の駅で、一等車も二等車もかまわずに人々が乗り込んできて、あっという間に私の客室は一杯になった。私の正面はハンガリー人。片言の英語とイタリア語、そしてフランス語のちゃんぽんで話し掛けてくる。その両脇は、ブルガリア人とルーマニア人、ドイツ語で話し掛けてくるがよくわからない。そして、私の両脇に、偶然マケドニア人の二人。一人はスコーピエまで一緒になった。

 窓から見える月明かりだけが、我々を照らしていた。暗闇の中で、何語かもわからない会話が続き、時々、英語やドイツ語で私に話し掛けてくる・・・。国境の検問は重々しく、客室に乗り込んでパスポートをチェックする警備隊は、まるで映画に出てくるロシア兵のようだった。腰には拳銃・・・。

 すでに午後十一時・・・、列車はマケドニアの首都スコーピエに到着した。コソボまで20キロ足らず・・・。私は、これから何が起こるのか、なぜこんなところまで来てしまったのか、何を後悔しても遅く、来るところまで来てしまった・・・・、そう思うより他はなかった。

 

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