彫刻との出会い

黒板に描かれた“ニケ”

 私はなぜ石を彫り始めたのか?1996年の暮れのことである。当時私は大学院博士課程の一年生だった。博士課程に進学してからというもの、私は自分自身の歩みに疑問を持ち始めていた。北海道から上京して東京大学へ・・・。芸術とはまったく関係のない方向へと、私は歩んでいった。

 しかし、博士課程へ上がるための修士論文の作成中、本ばかり読む生活にほとほと疲れ果て、またそれゆえか人間関係でも大きな障害を抱えていた。修士論文を書き終え、博士課程に進学した頃には、一ページの活字さえ見たくない状況に陥っていた。

 私の研究テーマは、福沢諭吉の思想的研究・・・。教育学部に属する私は、日本の学校教育の根源的な問題に触れるため、明治の近代的教育への道を開いた、福沢の思想に注目したのだった。福沢諭吉の残した書物は全21巻、1冊あたり700ページにのぼる。それらを読みこなしつつ、福沢の思想的根源を探る作業はなかなか骨の折れるものだった・・・。締め切りのあるこの作業の中、ストレスや緊張感から、人間関係は悪化してしまい、様々な問題を抱え込んだ時期でもあった。そして多くのものを失った・・・。

 そうして、博士課程進学してからというもの、新しい研究に着手するどころか、このまま本に囲まれ、一生本を読み続けていく生活に疑問をもち始めていた・・・。

 精神的な潤い・・・。私にはそれがまったく欠落していた。音楽に耳を傾けることもなく、“趣味”というものを持ち合わせていなかった。そんな自分に気が付き始めて、私は精神的な“リハビリ”として、“再び”絵を描き始めたのである。

 大学院の講義が終わった後、日が沈みかけ、教室には誰もいなかった。そのとき私は、精神的苦痛の頂点に達し、爆発しそうになった。そんなとき、突然私の心の奥底から「ニケ、サモトラケのニケ・・・」と求め始める衝動に駆られた。それはとめることの出来ない衝動だった。

 古代ギリシャの彫刻、両翼を広げ、今では頭部と両腕を喪失しているが、全世界の、芸術を理解する者の心を動かす作品である。それは私にとっても、この地上で最高の作品の一つである・・・。

 私は、東大の図書館に向かって歩き出していた。もう、自分が何をしているのか、理性的に判断する私は影を潜めていた。それまで押さえ込まれていた本能だけが私を動かしていた・・・。

 四階の閲覧コーナーの一つに、世界の美術を紹介した百科事典がある。私は以前から、研究の疲れを覚えると時々ここに来て、何気なくそれらを眺めるのだった。私は、ルーブル美術館所蔵のニケの写真を見つけるなり、立ち上がって貸し出しコーナーへと向かっていた。

 最早、眺めるだけではおさまらないものがあったようだ。

 私は、重たい百科事典を抱えて、もといた教室へと戻っていった。何かが私を動かしているのだが、どうしたらよいのかわからない。私は手元にあった紙に、鉛筆でニケを描き始めたが、「何かが違う・・・。苦しい・・・。」私はそう感じながら、誰もいなくなった教室の黒板に向かい、白いチョークを手に取り、さっきまで教育上の議論が交わされていた黒板いっぱいに、等身大のニケを描き始めていた。

 しかし、絵を描くことなど、既に十年ぶりぐらいだった。それでも私は、チョークを手に持ち、リズミカルに大きく弧を描くように腕を振りながら、黒板いっぱいにニケを描いていった・・・。時間も、ここがどこかも、自分が誰かも、そんなことは忘れ去られていた。伸びやかなひととき、閉じ込められていた精神の翼が、まるでニケの翼とともに蘇るようだった。

 気が付くと、既に一時間が経過していた。そして、黒板の中央にはサモトラケのニケが・・・。私は、それまで感じていた精神の重圧がふっと消えてなくなり、最後にそれを感じたのがいつだったかも忘れてしまっていた安堵感を覚えた。「ふぅー・・・」。ただそれだけだった。私は、イスに崩れるように座り込み、何か満たされるような思いで、黒板に描かれたニケを眺めていた・・・。

 それがきっかけで、私は“再び”絵を描くことが止められなくなったである。“再び”というのは、そもそも私は、現役の大学受験の時に、美術系の大学を受験していたぐらいで、そもそも物心ついたときから絵を描いていたのだった・・・。

 

そして大理石へ

 絵を描いているその瞬間だけが、大学院生活で感じる精神的重圧を忘れさせてくれた。次第に、その“瞬間”への要求は強まり、ただ絵を描くのではなく、本物のモデルを使って、もっと本格的に絵を描きたいという要求が強まっていた。この時点で、私はすでに博士課程の二年生になっていた・・・。その夏、私は雑誌で見つけた美術研究所のデッサン会に通い始めた。

 初めて描く実際の女性のフォルム・・・。何分置きかに次々と変化していくポーズが作り出す曲線美は、いくら木炭で描きつけても捉え切れるものではなかった。柔らかな女性の体が作り出す、肋骨から腰骨、そして脚へと流れていく曲線美は、いくら描いても描き切れなかった。「苦しい・・・、何かが表現し切れていない・・・。」私はそれが一体何なのか、自分でもわからなかった。しかし、その“苦しみ”はその曲線美を正確になぞればなぞるほど深まっていった・・・。

 そんなある日、芸術家の一人にそのことを相談してみたら、「立体じゃないのかな?それって。」「立体?」「彫刻でもやってみたら。近くに石屋さんがあるから・・・」

 「石か・・・」その時私は、直感的に白い大理石でやってみたいと思った。次々と変化する、柔らかな女性の体が作り出していくフォルムは、確かに立体でないと捉え切れないのと同時に、白い大理石でしか置き換えられないもののように感じた・・・。それが、私の彫刻への出発点となったのである。

 

佐藤石材へ

 私はここで、私の彫刻への可能性を広げてくれただけでなく、そもそも私に大理石を彫る機会を与えてくれ、それに必要なすべてのお膳立てをしてくれた佐藤石材の故佐藤俊市氏との出会いについて触れなkればならない。この人の存在なくして、今日の私の歩みは考えられないからである。

 「間違いない・・・、この苦しみは立体のはずだ。白い大理石・・・。早くそれを見てみたい。」私はただその思いだけで、紹介された佐藤石材へと向かっていった。JR山手線五反田から大崎にかけて、その内側を眺めていれば、石屋さんが見つかるよ・・・(*97年当時)。そのアドバイスをもとに、私は大理石を求めて電車に乗った。山手線の内側をひたすら眺めていると、突然、立ち並べられた石像が目に飛び込んできた。たしかに石屋さんがあった。「ここか・・・。」通り過ぎた私は、大崎の駅で降りて、とにかく線路沿いに五反田方面へと歩き始めた。

 「たしか、この辺のはずだが・・・」「ああ、あれだ!」私は立ち並べられた石像を発見すると、早速二回の事務所に上がり、大理石が欲しい旨を伝えた。しかし、聞いてみると、大理石は高価で、簡単には手に入らないことがわかった。それでも話をしていると、今は留守だが、ここの社長(*97年当時)は自分でも石を手掛け、また同時に多くの芸術家を援助してきているという話を聞いた。「社長がいるときにまた出直しておいでよ。」そう言われて、私は出直すことにした。

 日を改めて電話すると、社長さんが出て、そういうことなら一緒に本社工場のある茨城県の真壁(*現材桜川)に行こう、ということになった。年齢はすでに70歳を過ぎているそうだが、白髪がまったくなく、黒い髪がふさふさしているのに驚かされた。彼の運転するベンツに乗り、早朝私たちは真壁へと向かった。

 

白き石よ

 小雨の降る中、我々は真壁村にある工場へと到着した。2メートル近くある、積み上げられた石のブロック。積み上げれた御影石がどこまでも続いていた。「やはり、大理石はないのか・・・」私は、そう思いながらも、積み上げられた何トンもあるブロックを眺めながら、あたりを歩き回っていた。

 「おや、あの石の中央に積み上げられている白い石は、ひょっとしたら・・・」私は、小雨の降る中、それまで差していた傘を投げ捨てて、¥積み上げられたブロックによじ登り、中央に見える白い石へと近づいていった。

 雨に濡れた白い岩肌・・・。それは間違いなく大理石のものだった。「あるじゃないか!」その石は、中央に積み上げられ、端からは見づらい位置に置かれていた。「もう15年以上になるんじゃないかな。」工場長は後でそう説明してくれた。1メートル半ぐらいはあるかと思われるその石は、買い入れられた後、ずっとそのままになっていたようだ。

 「どこの石ですか?」「日本の寒水という石だよ。」しかし、価格は何十万円もするらしく、またそんな大きな石を彫る場所も、そもそも石自体彫ったこともない私は、ただただ降り続く小雨に濡れた白い大理石の方を、事務所の中から眺めていた・・・。

 

初めて手にした三個の大理石

 あたりを歩き回っているときに、私は石の切りくずや破片が山と積まれた場所で、手の平に乗るぐらいの大理石の小片を見つけた。「わー、大理石だ!」一緒にいた社長さんに尋ねると、好きなだけ持っていってよいということだった。私はその中から三個の大理石を拾い上げて、東京へと持ち帰ったのだった。

 1997年の9月、10月、11月と、私は立て続けに三個の大理石を彫っていった。彫り方などまるで知らない。10〜15cmぐらいの小さな大理石さえ、手にしたのはこれが初めてである。近くの川原を散策するのが常だった私は、この川原で彫ってみようと思い立ち、一個の大理石とマイナス・ドライバー、そして日曜大工用の普通の金槌を持って、近所の川原へと向かった。

 私は石に向かって、ノミの代わりにマイナス・ドライバーを横たえ、金槌を振り下ろし始めた。「つぅ・・」三回に一回はドライバーを支え持っている左手を打ちつける。しかし、二度、三度、的確にドライバーを芯で捉え、リズミカルに石を削っていたときに、私という存在が、振り下ろす金槌、そしてドライバーを通じて、何かのエネルギーのようにすぅっーと石に吸い込まれていき、その瞬間「ああ、これだ!」という思いと同時に、石を彫るというその行為そのものの中に完全に吸い込まれ、自分の存在のすべてが、彫刻というか、石の中に奪い取られた感じがした。

 「はまった・・・」そう感じたときはすでに遅かった。私は、少年の頃、夢中になって何かに取り組んでいたときの感覚が、二十年近い歳月の後、再び蘇ってきたのを感じた。「そうだ!この感覚・・・」ずっと忘れていて、それでいながら心のどこかで求めていたこの感覚・・・。私はそのとき、自分に何が欠けていたのか、今の自分の生活の何がおかしかったのかを、その瞬間にすべて理解した。

 

そして“白き石”へ

 私はそれからというもの、来る日も来る日も大理石の塊を持って、川原へと向かった。人目はまったく気にならなかった。犬を連れて散歩する人、ジョギングをする人、覗き込む人、声を掛ける人・・・。様々だったが、金槌とノミ(後で購入したもの)を手にした私には、まるで気にならなかった。川面のせせらぎ、そして陽の光を浴びてきらきらと光る大理石の結晶・・・。その石の破片が飛び散るたびに、かすかに醸し出される潮の香り(大理石は、海中で石灰質の殻を持つ生物の遺体が積もり重なって石灰岩となり、それが熱や圧力で変成して出来たもの)。私はもはや、別世界の住人なのであった。

 そうして仕上げた一個の作品を持って、私は石屋の社長さんを訪れた。彼の経営するカラオケ店で、風呂敷を広げ、女性が後ろ向きにお尻を向けた作品を見せた。「ちょっと彫ってみたんですが・・・」私はそう言ってトイレに立ち、戻ってみると、社長さんはそれをいとしそうに撫でながら、なんとキスまでしていた。

 それを見た私は、ただ見せるつもりでいたが、内心ではしょうがないなぁと思いながら、「差し上げます」と言ったところ、「アンタに、あの白い石を代わりにやるヨ。彫んなさい。来年、展覧会があるからそれに出したらいい」まるでわらしべ長者のようだった。私は狐につままれたような思いで、その石を撫で回す社長さんを見つめていた・・・。

 小さな三個の大理石。それを彫り始めてからわずか三ヶ月で、私は2トン近くある白い大理石を彫ることになった・・・。

 

大学院を辞める?

 そのとき私は大学院博士課程の二年生。さすがに来年からは、博士論文に取り掛かり始めなければならない。しかし、三個の小さな大理石を彫った経験から、とても博士論文の準備と、2トンの大理石での彫刻は両立しないことが了解された。

 私は、大学に通いながら、同時に塾・予備校の現代文の講師としてすでに十年の歳月が経過していた。小さな三個の大理石、しかし、それらを彫り始めてみると、週に二、三回の授業とその準備さえも負担に感じ始めていた。ましてや、今度は2トンの大理石・・・。

 答えは一つしかなかった。このまま石を彫り続けるのなら、もはや他のことは出来ない。自分の生活のすべてを捧げて、石を彫る以外にない・・・。石の中に、石を彫ることの中に、自分という存在が吸い込まれてしまってから、私はもはや後戻りすることができなくなっていた。

 翌年の二月、私は指導教官の佐伯教授の部屋を訪れた・・・。

 「先生、お話があります。実は・・・」私はこれまでのいきさつのすべてを教授に話し、3個目に彫り上げた、胸から下の、女性が正座を崩した姿勢の大理石を見せた。そして、退学届の用紙を・・・。

 「ほー、おもしろい。実にいい話だ。おおいにやんなさい」というのが教授の答えだった。その時教授は、一人の学生と一緒に、ジミー大西という、それまでお笑い芸人で、一転して絵描きに転向し、話題になった人の展覧会を見てきた帰りだった。「実に伸び伸びとして、いい絵だった。ヨットの帆に描かれた象は見事だった・・・」

 教授は、障害児教育にも関心があり、絵を描くことや、音楽が、子ども達の知られざる一面を垣間見せることを常々語っていた。

 「しかしなぁ君、日本の社会というのは所属社会だ。お前はいったいどこの誰なんだ、ということがわからなければ生きていけない社会だ。ところで、単位はどうした。全部取ったのか?」「はい。博士課程に必要な単位はすべて揃っています・・・」「じゃあ、籍だけ残しなさい。大学に来なくていいから。その方が何かと都合がいいだろう・・・」

 このやり取りの後、私は、私の判子だけが押された退学届を再び鞄にしまい込んだ・・・。

 

二ヵ月半

 東京都美術館での展覧会は六月の中旬。六月の頭には作品を完成させなければならない。教授公認(?)で大学の講義には一切顔を出さず、塾・予備校の方は、「博士論文の準備が忙しいので・・・」という理由で退職し、三月中旬から、私は五反田にある佐藤石材の工場(*1998年当時)で一人、2トンの大理石に朝から晩まで取り組み始めたのである。

 「びくともしない・・・」それが最初の印象だった。御徒町で購入した石彫用のハンマーとノミ。彫り方のまったくわからない私は、ノミを垂直に立て、思いっきりハンマーを振り下ろした。しかし、ノミは石に突き刺さりもしなければ、欠けもせず、まったくびくともしなかった。ただ、私の左手が、三回に一回はしたたかにハンマーで打ち据えられ、紫色に腫れ上がっていくだけだった。

 時々、工場で働く職人さんや事務所の人たちが面白がって覗きに来る。「こうやって、こうやるんだよ・・・」私の持っているノミやハンマーを取り上げ、彼らがやって見せる。すると、見事に石は削られ、時にはコーヒーカップの受け皿ぐらいの大きさで、大理石の破片が飛んでいく。 「一体どうやって?」私は初め、その仕組みや原理がまったくわからなかった。

 そんなある日、職人さんの一人が、「チョコレートだよ。板チョコのチップを作るでしょ。それを一個一個衝撃を加えて、弾き飛ばすんだ・・・」と実演しながら、説明してくれた。大理石がクロスに切り込まれた後、出来上がっていく小さなコブ・・・。その端っこに、もう一回ハンマーとノミで衝撃を加える。するとそのコブは、見事に吹っ飛んで削られていくのである。

 「そうか・・・」彫刻の一つの原理をつかんだ私は、急速に石を彫り始めた。二、三日すると、もう誰もからかってノミとハンマーを取り上げて実演して見せるものはいなくなった。

 当時私の使っていたノミは、先に超鋼のついたもの。寒水という大理石は、白いが結晶が大きく、石としては加工がしやすい方だった。ただし、細かい作業に入ると、結晶が大きい分、角持ちが悪いという問題が出てきた。

 いくら“チップ”を飛ばす彫り方がわかっても、やはりまったくの初心者である。石の彫り方を今から見ると、めちゃくちゃで、削っていく方向がまちまちなのがよくわかる。しかし、にもかかわらず、彫りあがった部分を見た人で、私が彫刻を初めてやったとは誰も思わなかったようだ。それは、今の私が見てもそう思う。よくあの硬い石から、このような柔らかいフォルムが生まれたものだと、他人事のように思う。

 ただ、石への気持ちだけで彫った作品・・・。技術なんてまるでない。にもかかわらず、いやだからこそ?見た人たちが感動してくれ、雑誌でも紹介され、賞をもらったのかもしれない。完成して、展覧会になったときには、教授が足を運んでくれて、喜んでくれたのを今でも忘れることができない・・・。

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産月(うみづき) 1998